第1章 きっかけは軽い一言
「僕、1月になったらしばらく店閉めて、ええひと月ほどですけれどインドへ行ってこようと思ってます」
お客様のいない店内の奥の厨房で明日の料理の仕込みの手を休めて、左斜め45度の中空に目を泳がせながらそうつぶやいたのは誰あろう僕のインド料理のお師匠さまのM氏でした。
「え!お店ひと月も閉めるんですか?」
「う~ん1月は寒いしお客も少ないからね。それに僕インドで少し考えたいこともあるし。そうだ篠原さん(梵我マスターのこと)も一緒に行かない?」
「ええっ!」またまた簡単におしゃる。でもこの気軽なフィーリングどこかで・・・。そうだ5年前のあの時もそうだった。
「ねえ篠原さん、ランタン谷に行きません?これから雨季に入るんですが一番綺麗な時期ですよ」
お客として昼飯のチキンカレーを食べている僕に、カウンター越しにM氏が声をかけてきた。
「ランタン谷?」カレーをすくうスプーンを止めていぶかしがる僕にM氏はこともなげにおしゃった。
「いやだなあ、ヒマラヤのランタン谷ですよ。1週間ほどの軽いトレッキングですけど、お仕事休めます?」
あの時もM氏の気軽な誘いにのって、往復1週間の軽い?トレッキングで4千メーターの高さまでお散歩に行ったわけでした。高山病や下痢、親指大の雹、山小屋での眠れぬ寒い夜。慣れぬ山歩きで痛めた足を引きずりながら歩いたこと。などなど。
今度はインドにひと月だとおしゃる。時間的にも金銭的にも無理だとお断りする。
「な~に今は格安の航空券が簡単に手に入りますし、インドは物価がべらぼうに安いんで旅費、宿泊費含めて15万円もあれば十分やっていけますよ。それにインド料理のお店始めようと思ってるんなら絶対行っとくべきですよ。ああ朝食べるサモサとチャイの美味しかったこと。ベジタリアンレストランだったらデリーに美味しいお店があったな。屋台のシシカバブは最高だった。ホテルで食べたインド料理のバイキングなんて500円で食べ放題ですよ」
ちなみにサモサとはスパイスのきいたポテト入り揚げ餃子みたいなもの。シシカバブとはマトン(羊肉)のひき肉のソーセージを焼いたものと想像してもらいたい。
食べ物の話から入られると僕も弱いところがある。目の前に料理のイメージが浮かび、口の中にはその食感や味まで感じ出してしまう。
いやいやいけない。安易に話に乗っては。そのときは興味がないフリをして再度お断りしたが、帰りの車の中では、もうインドの街角やレストランでいろいろなインド料理を食べている自分の姿しか浮かんでこない。
「1月にインドに行くことになったから」家に帰った途端、奥さんにそう言っている自分ってどんな人。疑問符!
「僕一緒にいけないかもしれない」
せっかちに超のつく僕はインドの旅の準備も整え、格安の航空券の手配も済ませ、1週間後M氏に報告したらこともなげにそうおしゃった。
「いや行く事は行くんですが、かみさんの友達の出産日がどうも伸びそうでしてね」
???M氏の奥さんのお友達の出産日とM氏の旅行日程との関係がどうしても結びつかずけげんな顔の僕???
「僕らは出産は自分たちで取り上げてるんですよ。うちのかみさんの時だって仲間に手伝ってもらって。その後家族でその胎盤を食べたんですよ。娘なんか久しぶりのお肉だって喜んじゃって。でもあれ結構美味しいんですよ。ちょうど豚肉のバラのところみたいで」
僕の大脳がその胎盤の味を感じ始めたのを慌てて振り切って話題を元にもどした。
「ということは胎盤の味・・・じゃなくてインドには僕一人で行くことになりますよね」
「そういうことになりますね。まあ篠原さんなら大丈夫でしょう」とこともなげにおっしゃる。どこが大丈夫なの。中学生ていどのたどたどしい英会話しかできない50過ぎのおっさんが何のつてもなく、金もなくひと月あまりインドで暮らすなんて想像すらつかない。
「そうですね」動揺を年齢相応の厚顔の裡に隠し、こともなげに返事してる見栄っ張りな自分て途方もなく危ういなあ。
その夜机の上に広げたガイドブックを見ながら、どこに行ってどこに泊まって何を食べるのか、もうすっかり一人旅を楽しんでいる怪しげな笑みを浮かべた自分がいた。
(つづきはまた次回。感想をください)